こちらは、六木中央公園です。

ご覧の河童の像から

 『河童公園』が通称です。

緑が多いことに加えて

 遊具や噴水もあることから、

 子供達で賑わうことが多いようです。


   

この公園の一角に『六木土地区画整理事業 竣功記念碑』があります。

   【参考】『六木土地区画整理事業 竣功記念碑』より

  私たちが住むこの地域は今を去ること四百年の昔 織田信雄の家臣天野周防守国忠
  が五騎を引具してこの地に居を構えたのに始まると伝えられる。

  その後 江戸時代より明治大正昭和と経過し人口も次第に増加したが なお 田園
  の緑の間に清流が蛇行し 春は菜の花に蝶が群れ舞い 秋は一望黄金色の稲穂が波
  打ち続く農耕地帯で 僅か七十数戸の農家が点在するのどかな村落であった。その
  後我が国の急激な社会経済の発展に伴い 首都圏への人口集中化による住宅不足の
  現象が各所に現れ 当地域にも日に日に都市化の波がおしよせ 昭和三十五年頃よ
  り従来の狭い道路に沿って住宅が建ち始め いわゆるスプロール化の様相を呈して
  来た。この情勢のまま推移すれば 緑は失われ小川はよごれ 児童の遊び場は奪わ
  れ 地域住民の生活環境は悪化の一途をたどる状況となった。
  この世相にかんがみ 地元有志は相寄り住み良い環境造りの方策を練り 近隣地区
  の区画整理に呼応し 土地区画整理組合を設立すべく昭和四十三年に組合設立準備
  委員会を結成した。地元住民並びに土地所有権者の絶大な協力を得て 関係当局の
  指導を仰ぎつつ組合設立の準備作業を推進し 昭和四十七年四月一日付けで待望の
  東京都知事の認可による六木土地区画整理組合が設立され 事業着工の槌音は高ら
  かに鳴り渡った。

  以来今日まで幾多の苦難の道を乗り越え 総額二十数億の巨費を投じ 今ここに所
  期の目的を達成し 理想的で健全な堂々たる現在の姿を見るに至った。
  ここに世紀の大事業の完成をよろこび この事業を記念して記念碑を建立し これ
  を後世に伝えんとす。

      昭和六十年五月吉日
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